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富山県
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相倉合掌造り集落(富山県南砺市)
相倉集落(あいのくらしゅうらく)は、南北に約500m、東西に約200〜300mのエリアに20棟の合掌造り家屋が現存しています。現存する合掌造り家屋の多くは江戸時代末期から明治時代末期に建てられたもので、平入りが中心の白川郷とは異なり妻入りの家屋がほとんどです。
菅沼合掌造り集落(富山県南砺市)
菅沼集落は、南北に約230m、東西に約240mのエリアに9棟の合掌造り家屋が現存しており、うち4棟は居住家屋です。五箇山では古くから塩硝づくり、養蚕、紙すきなどが行われていました。特に塩硝づくりは江戸時代には加賀藩の援助を受けたことにより発展しました。
越中八尾の町並み(富山市八尾町)
16世紀に聞名寺や蓮勝院が建てられたことから八尾の町はその門前町として始まりました。江戸時代初期には加賀藩から町を作って商業活動を認める「町建て」の御墨付を得て、現在の八尾旧町の原型が成立しました。現在も諏訪町本通りなどを中心に伝統的な白壁が特徴的な建物が石畳の通りに立ち並び江戸時代の町並みの面影を残しています。
金屋町の町並み(富山県高岡市)
高岡城を築城した前田利長は、城下の産業発展を図るため、1611年(慶長16年)に砺波郡西部金屋から7人の鋳物師を招き、千保川左岸に土地を与えて鋳物場を開設させました。これが金屋町の始まりで、この地に鋳物産業が根付き発展していきました。
岩瀬の町並み(富山市東岩瀬町)
岩瀬は江戸時代後期から明治時代にかけては北前船の交易で栄え、五大家(馬場家、米田家、森家、畠山家、宮城家)を中心に廻船問屋が立ち並びました。1873年(明治6年)の大火により多くの建物が焼失しましたが、豊富な財力のよって岩瀬独自の「東岩瀬廻船問屋型」の家屋が再建され、岩瀬の町並みが形成されました。
山町筋の町並み(富山県高岡市)
1609年(慶長14年)、前田利長が高岡城を築き城下町を整備しました。町の中心である山町を含め多くの家屋は1900年(明治33年)に起きた大火によって被災しましたが、その後の火災に強い土蔵造りで再建されました。現在も山町筋には土蔵造りや真壁造りの家屋が多く残っています。
井波の町並み(富山県南砺市)
「井波彫刻」で知られる彫刻の町である井波町は600年以上にわたって瑞泉寺の門前町として栄えてきました。井波彫刻の歴史は瑞泉寺の歴史でもあり、1390年(明徳元年)に建立された瑞泉寺は焼失の度に井波の宮大工により再建されてきました。現在でも井波の町には約250人もの彫刻師がいて、八日町通りには彫刻工房が軒を連ね情緒ある風景を作り出しています。
吉久の町並み(富山県高岡市)
吉久は、江戸時代に加賀藩の年貢米を保管する「御蔵」の設置にともない、大坂や江戸へ藩米を運ぶ「北前船」の流通拠点となった吉久は、加賀藩の経済に重要な役割を果たしました。現在においても吉久には、江戸末期から近代に建てられた当地域特有の切妻造平入の町家がよく残されており、2020年(令和2年)には重要伝統的建造物群に選定されました。
城端の町並み(富山県南砺市)
戦国時代に荒木氏が拠っていた城端城の城下町であった城端ですが、1559年に善徳寺が福光から城端に移されたことにより、その門前町として繁栄しました。現在も石垣のある町屋や豪商野村家の土蔵群蔵回廊(今町通り)など往時の面影が残す町並みを見ることができます。
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2022年4月24日
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富山城(富山県富山市)
富山城は1543年(天文12年)頃に畠山氏の守護代であった神保長職によって築城され、加賀藩初代藩主の前田利長がこの場所を隠居城として整備しました。明治以降、城跡のほとんどの建造物は失われましたが、2004年(平成16年)に模擬天守が建てられ戦災復興期を代表する建築物として国の登録有形文化財に指定されました。
福光の町並み(富山県南砺市)
福光は古くから交通の要衝で、江戸時代、五箇山から城端、福光を経て加賀、京都へと続く、絹と米の道の拠点となり、商人の町、宿場町として繁栄しました。現在では福光はバット生産地としても知られ、全国のバットの約4割を占めています。