柳川の町並み(福岡県柳川市)
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町並み保存度
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歴史的建造物が続く町並みではないものの、江戸時代の掘割が残る風情ある町並みは一見の価値があります。
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町並みの規模
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お堀沿いに広範囲に渡って風情ある町並みが残されています。
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観光魅力度
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どんこ舟での川下り、名物のうなぎのせいろ蒸しなどのグルメ、歴史ある城下町めぐりなど、様々な観光を楽しめます。
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柳川は、10万9000石を誇った柳川藩の城下町です。柳川城は鎌倉時代に蒲池氏が築いた城を起源とすると伝えられますが、本格的に整備されたのは江戸時代です。
1587年(天正15年)に入城した立花宗茂が城の改修を始めましたが、関ヶ原の戦い後に改易となります。その後、初代柳川藩主となった田中吉政が城や堀を大規模に整備し、柳川城は歴代藩主の居城として発展しました。
しかし、柳川城は1872年(明治5年)の火災で焼失し、現在は天守跡が史跡として残るのみです。
歴史的建造物があまり残っていないものの、城下町の町割りや縦横に巡る堀割は江戸時代の姿を今もよく残しており、300年前の地図でも町を歩けるといわれるほどです。
水郷ならではのお堀めぐりや城下町散策を楽しめるのが柳川の大きな魅力です。
柳川藩の城下町、柳川の町並み
柳川は10万9000石を誇った柳川藩の城下町として栄えました。
柳川城は鎌倉時代を起源とし、江戸時代に立花氏や田中氏によって大規模に整備されました。
柳川城は1872年(明治5年)の火災で焼失し、城は失われましたが、城下町の町割りや縦横に巡る堀割は今も江戸時代の面影を色濃く残しています。
水郷ならではのお堀めぐりと風情ある城下町散策は、柳川を代表する魅力です。
どんこ舟での川下り、名物のうなぎのせいろ蒸しなどのグルメ、歴史ある城下町めぐりなど、様々な観光を楽しめます。
北原白秋生家
1885年(明治18年)、詩人・北原白秋は柳河藩御用達の海産物問屋を営む旧家に生まれました。
代々屋号を「油屋」とか「古問屋」と称する海産物問屋でしたが、白秋の父の代になると、柳川地方でも一、二をあらそう酒造業を営むようになりました。
当時の北原家屋敷は、一町三反という広大な敷地を有し、母屋との間には、流れのきれいな掘割りがありました。
しかしそんな生家も、明治34年の沖端大火災で母屋と一つの穀倉を残して焼失。昭和44年11月に復元され、平成元年2月には母屋に附属していた隠居部屋も復元されました
白秋は1904年(明治37年)に早稲田大学に入学。学業の傍ら詩作に励み、1909年(明治42年)処女詩集「邪宗門」を発表。2年後、詩集「思ひ出」を発表。名実ともに詩壇の第一人者となります。現在、この生家内には白秋の著書や遺品、さらには柳川の風物にゆかりの深い資料が数多く展示されています。
柳川藩主立花邸「御花」
立花氏庭園は旧柳川藩主・立花家の屋敷と庭園です。その始まりは、江戸時代の1738(元文3年)。柳川藩5代藩主・立花貞俶が、柳川城の南西隅に位置し、当時「御花畠」と呼ばれていた場所に、藩主一家が暮らす別邸を築いたことにさかのぼります。
明治時代になると、立花家は伯爵となり、屋敷や庭園は近代的に整備されました。そして1910年(明治43年)には、洋館と和館が調和する新しい様式の立花伯爵家住宅が完成します。この建物群は、現在の立花氏庭園の中心となる主要建造物となっています。
1978年(昭和53年)には、屋敷地の西側に広がる「松濤園」が国の名勝に指定されました。その後、2011年(平成23年)には東庭園も追加指定され、屋敷地全域が国の名勝となるとともに、指定名称も「立花氏庭園」へと改められました。大広間と御居間に面する松濤園は、明治時代に整備された近代和風庭園で、美しい池泉や松並木が印象的な庭園です。
この場所は、地元では古くから「御花(おはな)」の名で親しまれてきました。戦後は立花家が料亭旅館として営業を始め、現在も宿泊や食事を楽しみながら、大名文化の趣を今に伝える美しい景観を堪能することができます。
アクセス
【電車でのアクセス】
西鉄天神大牟田線「柳川駅」から柳川藩主立花邸のあたりまで
徒歩約35分
タクシーで約10分
川下りで約70分
【バスでのアクセス】
西鉄天神大牟田線「柳川駅」から西鉄バスで約15分、「御花前」で下車。
【車でのアクセス】
下の地図の場所の市営白秋観光駐車場(有料)が便利です。
60分未満無料。以降は1日最大500円
駐車場入口にトイレが有ります。
訪問日:2026年4月
最後まで見ていただきありがとうございます。
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