旧大溝城下町の町並み(滋賀県高島市)
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町並み保存度
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古い町家や細長い区画、水路などに城下町の面影が残されています。
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町並みの規模
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古い町並みの範囲は限定的ですが、乙女ヶ池などを含む「大溝の水辺景観」や大溝城跡など広い範囲に城下町の面影が残されています。
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観光魅力度
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城下町の面影が残る町割りや水路、大溝陣屋総門、造り酒屋の福井弥平商店やその周辺の建物など、散策が楽しめます。
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大溝は、天正6年(1578年)に織田信長の甥・織田信澄によって大溝城が築かれ、城下町として整備された町です。その後、江戸時代には大溝藩の陣屋が置かれ、町並みが整えられていきました。
大溝は、近江商人の活躍でも知られています。大溝をルーツとする「小野組」は、江戸時代から商業を広げ、明治初期には三井組などとともに政府の為替方を務めるほどの有力な商人となりました。
現在も、古い町家や細長い区画、水路などに城下町の面影が残されています。特に町の中央を流れる水路は、大溝の町並みを特徴づける景観の一つです。
こうした歴史的な町並みや水路、琵琶湖の内湖である乙女ヶ池などを含む「大溝の水辺景観」は、国の重要文化的景観に選定されています。
旧大溝城下町の町並み(滋賀県高島市)
大溝城の初代城主・織田信澄は、1578年(天正6年)に新庄(現在の高島市新旭町)から大溝へ城を移しました。
城下町を整備する際には、新庄や今市、南市などから商人や職人、住民、寺院などを移し、町人が暮らす商家の町並みをつくりました。
このとき整えられた町割りは、京都の町家に見られるような、間口が狭く奥行きの深い「短冊形」が特徴です。
現在の大溝にも、この歴史ある町割りがほぼそのまま受け継がれています。
「萩乃露」醸造元(株式会社 福井弥平商店)
「萩乃露」で知られる福井弥平商店は、宝暦元年(1751年)創業の歴史ある酒蔵です。現在の建物も、古い部分は200年以上前に建てられたものと考えられています。長い年月の中で何度も増築や改築が行われ、現在の趣ある酒蔵の姿が形づくられました。
まち割水路
城下町には豊富な湧き水を利用した水路が張り巡らされました。水路は生活用水や排水、防火用水などに利用され、大溝の町並みを特徴づける重要な景観となっています。
大溝陣屋総門
大溝陣屋総門は、江戸時代の大溝陣屋の正門です。大溝陣屋に関係する建物として現在まで残る貴重な建造物で、重要文化的景観「大溝の水辺景観」の構成要素の一つとなっています。
僅かに残る武家屋敷(笠井家)
この一帯には藩士たちが住む武家屋敷が整えられていました。しかし、明治維新後には多くの藩士が大溝を離れたため、現在では当時の武家屋敷の姿を伝える建物はほとんど残っていません。その中で、笠井家は現在も残る数少ない武家屋敷の一つです。建物には解体や増改築が行われた部分もありますが、全体として藩政時代の武家屋敷の特徴をよく伝える貴重な建物です。
大溝城跡と外堀として利用されていた乙女ヶ池
大溝城・天守台跡(2019年9月撮影)
石垣に囲まれた小高い森が、大溝城の天守跡です。大溝城は、安土・桃山時代の1578年(天正6年)に、織田信長の甥・織田信澄によって築かれ、それに伴い城下町が整えられました。大溝城の特徴は、琵琶湖の水を利用した「水城」であったことです。本丸の南東には琵琶湖の内湖「乙女ヶ池」があり、城の堀と乙女ヶ池を利用して、城を水で囲んでいました。江戸時代になると、分部光信が大溝藩主となり、大溝城跡は陣屋として利用されました。その後、分部氏による支配は明治維新まで続きました。
乙女ヶ池(2019年9月撮影)
乙女ヶ池は、かつて大溝城の外堀として利用されていた琵琶湖の内湖です。本丸の東南方向に広がり、城の防御や水運に活用されていました。
アクセス
【電車でのアクセス】
JR近江高島駅から総門のあたりまで徒歩約5分
【車でのアクセス】
下の地図の場所にある市営勝野駐車場(無料)を利用できます。
訪問日:2026年8月
最後まで見ていただきありがとうございます。
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