萩城下町の町並み(山口県萩市)
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町並み保存度
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白壁の武家屋敷や鍵曲がりなどかつての城下町の姿を残す町並みが見事に残されています。
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町並みの規模
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城下町に残る町並みは大変大規模です。
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観光魅力度
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萩城跡、武家屋敷群、商家群、幕末から明治維新に活躍した偉人の生家など見所は多岐に渡り、一日では回り切れないほどです。
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萩城下町は、1604年(慶長9年)、関ヶ原の戦いに敗れて周防国・長門国の二か国に減封された毛利輝元が、萩城と並行して建設を進め、長州藩の拠点として整備されたものです。
入城した毛利輝元の命により、狩野太郎左衛門が描いた絵図が都市設計の原型になったと考えられています。
およそ260年にわたり毛利36万石の城下町として発展し、その後も天災や戦災を免れたため、町割りや建物、街路など往時の姿が今日までよく残されています。
町筋は碁盤目状に区画され、分厚い白壁の武家屋敷、夏みかんがのぞく土塀や独特の鍵曲がりなど、かつての城下町の風情を色濃く伝えています。
また、この町には高杉晋作や木戸孝允など、幕末から明治維新に活躍した志士たちの生家も現存しています。
萩市に残る歴史的まちなみのうち、旧萩城三の丸「堀内地区」と、外堀南側の武家地「平安古(ひやこ)地区」が、1976年(昭和51年)に全国で最初の『重要伝統的建造物群保存地区』に選定されました。
また、 2015年(平成27年)には「世界文化遺産」に認定されました。
萩市浜崎の町並み(山口県萩市)はこちらをご覧ください。
堀内地区(重要伝統的建造物保存地区)
堀内地区は、1608年(慶長13年)に毛利輝元が築いた萩城の旧三の丸にあたります。
藩の役所や毛利一門など大身の武家屋敷が建ち並んでいた地区で、現在もその地割や多くの土塀が残り、十数棟の武家屋敷も残っています。
旧周布(すう)家長屋門
周布家は萩藩の永代家老・益田家の一族で、石見国周布郷を領したことからその名がつきました。藩政時代には大組士の筆頭として1530石余を領していました。萩屋敷の表門である長屋門は、桁行約25mにおよぶ長い建物で、中央に開き扉を備えています。外観は腰部を下見板張り、上部を白漆喰で仕上げ、切石積みの基礎を持つなど、江戸中期の典型的な武家屋敷長屋の様式を今に伝えています。
旧益田家物見矢倉
益田家は萩藩の永代家老で、阿武郡須佐(現・萩市須佐)に領地を持っていました。幕末の当主・親施は藩政改革を行いましたが、禁門の変の責任を問われて切腹しました。旧益田家物見矢倉は、高い石積の上に建てられた平屋建て(長さ11m・奥行約5m)の建物で、武器庫として使われるとともに、前面の馬場を見張る役割を果たしていたと伝えられています。
旧二宮家長屋門
二宮家は萩藩の大組で、891石余を領し、美祢郡嘉万村(現在の美祢市)に領地を持っていた家柄です。藩政初期の当主・二宮太郎右衛門就辰は、萩城築城の普請奉行を務めました。長屋門は本瓦葺の入母屋造で、正面や門には格子窓が設けられています。
堀内鍵曲
「堀内鍵曲(かいまがり)」は、土塀に囲まれ直角に折れ曲がるため見通しのきかない独特の通りです。江戸時代には藩の役所や重臣の屋敷が並び、橋本川沿いには藩主の別邸や下屋敷が建ち並んでいました。
幕末に藩庁が山口へ移ると屋敷は解体され、跡地は夏みかん畑へと変わります。その際、屋敷の土塀や石材が畑の防風や石積みに活用され、「土塀と夏みかん」の景観が生まれました。現在も保存修理や植栽が進められ、往時の風情が復元されています。
萩城城下町
商家など明治時代の建物が数多く現存する史跡地区です。庭園や土産物店、カフェなども点在しており町歩きを楽しめます。
菊屋家住宅
菊屋家は、萩藩の御用達を務めた由緒ある旧家です。主屋は17世紀中頃に建てられた切妻造・桟瓦葺きの町家で、全国でも最古級の大型町家として大変貴重です。前面には「みせ」と呼ばれる店舗部分があり、その奥には横並びの居室が続いています。18〜19世紀に建てられた蔵も複数残っています。
高杉晋作生家
高杉晋作生家
高杉晋作は、萩藩士・高杉小忠太の長男として1839年(天保10年)に生まれました。1857年(安政4年)には久坂玄瑞のすすめで松下村塾に入門し、吉田松陰の教えを受けています。晋作は奇兵隊を創設し、四国連合艦隊との講和交渉や下関挙兵などで活躍しました。明治維新の実現に力を尽くしましたが、1867年(慶応3年)、28歳の若さで亡くなりました。旧宅内には晋作の写真や書が展示されており、自作の歌碑や詩碑、産湯に使ったと伝わる井戸も見ることができます。
木戸孝允生家
木戸孝允生家
木戸孝允は天保4年(1833年)6月26日、萩藩医・和田昌景の長男としてこの家で生まれ、約20年間を過ごしました。17歳で藩校・明倫館に入り、吉田松陰に学びました。30歳頃から藩の要職に就くとともに京都に出向き、1866年(慶応2年)には坂本龍馬の仲介で薩摩藩の西郷隆盛らと薩長同盟を結びました。明治新政府では五箇条の御誓文の草案作成や版籍奉還・廃藩置県の実現に尽力し、西郷隆盛・大久保利通とともに「維新の三傑」と称されました。1877年(明治10年)、西南戦争の最中、45歳で京都で亡くなりました。
木戸孝允生家
この旧宅は1926年(大正15年)に木戸孝允の子孫が当時の萩町に寄贈したもので、誕生した部屋や庭園など当時の姿をよく残しており、1932年(昭和7年)に国の史跡に指定されています。
萩城跡
萩城は慶長9年(1604)に毛利輝元が築城しました。指月山麓に築城したことから指月城とも呼ばれています。
明治7年(1874)に天守、矢倉などの建物は全て解体され、現在は石垣と堀の一部が残っています。
平安古地区(重要伝統的建造物保存地区)
平安古地区は、堀内・浜崎と並ぶ萩市内の重要伝統的建造物群保存地区のひとつです。橋本川沿いの東西約150m、南北約300mの範囲に、藩政時代の町割りがよく残っています。
かつて重臣の多くは三の丸に住んでいましたが、開墾の進展とともに平安古や江向、土原にも武家屋敷が増えていきました。
堀内地区と同じように、土塀に囲まれて見通しのきかない「鍵曲(かいまがり)」の道や、土塀越しにのぞく夏みかんがあり、萩らしい景観を楽しむことができます。
アクセス
【電車でのアクセス】
JR東萩駅から徒歩で約20分
【バスでのアクセス】
萩市内を巡る観光バス「萩循環まぁーるバス」の西回りコース「晋作くん」が、萩城下町や指月公園などを巡ります。詳細は萩市のウェブサイト(萩循環まぁーるバスのご案内)でご確認ください。
【車でのアクセス】
下の地図の場所に中央公園駐車場(有料)が便利です。
その他、萩市内に駐車場が多数あります。
萩市のウェブサイト(駐車場・レンタサイクル)でご確認ください。
訪問日:2025年5月
最後まで見ていただきありがとうございます。
ご感想や、萩の町並みについての思い出、これから出かけられる方に役立つ情報等ございましたら、コメント欄で教えていただけると幸いです。
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裕人
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2025/09/26 09:38
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メジャーな観光地で、The・城下町という印象で、観光客も多いですね。石垣の上に白い壁というのが趣がありますし、平安古地区の壁は筋が入っていて黄土色もいいですよね。有名な政治家の居宅も意外とこじんまりとした面持ちで、きれいに保たれているのもいいですね。もっと豪邸に住んでいるのかと思っていました。 ほとんどの政治家の居宅にはいきましたが、行けていないのが桂太郎邸の横にある旧湯川家屋敷ですね。そこも良いらしいです。その周辺は家の前に大きく掘られていて水が流れているので特殊な町並みが感じられますよね。
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なおきち(古旅管理人)
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2025/09/26 15:44
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WEB
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萩のどこまでも続く石垣と白壁の町並みは、本当に圧巻ですね。 武家屋敷そのものは取り壊されて夏みかん畑になっている場所が多いのですが、それが今では萩らしい風景として定着しているのが面白いと思います。 また、有名な政治家の旧宅が数多く残されているのも大きな魅力ですね。旧湯川家屋敷は私もまだ訪れていません。このあたりの小川沿いの町並みもよさそうですね。次回は是非行ってみたく思います。
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