【城感動度】 |
城保存度
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構造物は堀と石垣以外には残存しておらず、天守は復興天守でその他の建物も元の姿を再現したものではありませんが、これらの復興建築のおかげで往時の雰囲気を感じることができます。 | |
城の規模
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東西約840m、南北940mある大規模な城郭が築かれていました。都市化により多くは埋められてしまいましたが、本丸の水堀などからその片鱗をみることができます。 | |
観光魅力度
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城のすぐそばを通る紀州街道には江戸から明治の古い町並みが残されています。城の隣にはだんじり会館もあり合わせて観光を楽しめます。 |
岸和田城が最初に築かれた年代や経緯については不明なことも多いようですが、戦国時代の16世紀中頃には松浦氏が居城としていたことがわかっています。
天正11年(1583年)、豊臣秀吉は天下統一の過程で、中村一氏を岸和田城に置き、紀州の根来衆、雑賀衆、粉河衆などの一揆衆討伐を命じました。
根来寺壊滅後は秀吉の叔父である小出秀政を城主にし城や城下町の整備にあたらせました。
江戸時代に入ると1640年(寛永17年)摂津・高槻城より岡部宣勝が入城し岸和田藩5万3千石の城主となり、以後岡部長職の時代まで岡部氏13代の居城となりました。
岸和田城は大坂城と和歌山城の中間地点にあることから徳川家康の妹の子である岡部宣勝を藩主にし紀州藩を監視する意味があったもと言われています。
1827年(文政10年)に天守を焼失しましたが、以降再建されないまま、1871年(明治4年)に廃藩置県により岸和田城は廃城となりました。
現在の天守は1954年(昭和29年)に建てられた復興天守で、連結式望楼型3重の天守となっています。
日本100名城の選定対象には選定されませんでしたが、2017年(平成29年)、続日本100名城(161番)に選定されました。
目次 ・堀と石垣 ・紀州街道 ・アクセス |
紀州街道は大坂から岸和田を経由して和歌山城下を結ぶの街道で、江戸時代には紀州徳川家の参勤交代にも使用されました。現在も岸和田城の西側の紀州街道沿いに江戸から明治の建物が見事に残されていて往時の面影をしのぶことができます。
【電車でのアクセス】
南海岸和田駅から徒歩約25分
【車でのアクセス】
下の地図の場所、岸和田だんじり会館の隣に有料駐車場(岸和田市営駐車場)があります。紀州街道は道を渡って北西に一本入った通りになりますので町並み散策にも便利です。
訪問日:2022年8月
最後まで見ていただきありがとうございます。
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