-
ホーム
-
古い町並み
-
臼杵城下町の町並み(大分県臼杵市)
臼杵城下町の町並み(大分県臼杵)

町並み保存度
|
|
切り通しと呼ばれる通りを中心に城下町の面影を残す町並みがよく残されています。
|
町並みの規模
|
|
古い町並みが城下町のあちらこちらに残されていて大変大規模なものになっています。
|
観光魅力度
|
|
臼杵特有の景観が楽しめる風光明媚な町並みは素晴らしく、飲食店やカフェなどもあり誰もが楽しめる場所です。
|
大友義鎮(宗麟)によって臼杵城が築かれ城下町が整備されて以降、江戸時代は稲葉家が治める臼杵藩五万石の城下町として繁栄しました。
現在も狭い路地のいたるところに往時の城下町の面影が色濃く残されています。
臼杵の町には二王座と呼ばれる阿蘇山の火山灰が固まってできた凝灰岩の丘があり、城下町の整備にあたりこの丘の岩を削り取って道が造られました。
このことが臼杵特有の景色を創り出していて、1993年(平成5年)には国の都市景観100選にも選ばれました。
特に旧真光寺の前の通りは「切り通し」と呼ばれ、臼杵を代表する景観のひとつとなっています。
二王座と呼ばれる丘を削って造られた臼杵城下町

臼杵の町には二王座と呼ばれる阿蘇山の火山灰が固まってできた凝灰岩の丘があり、城下町の整備にあたりこの丘の岩を削り取って道が造られました。
旧真光寺の二階からの景色
旧真光寺は内部が無料で公開されています。旧真光寺の前の通りは「切り通し」と呼ばれ、臼杵を代表する景観のひとつとなっています。
旧片切家屋敷
旧真光寺の前にある石段と立派な門構えが印象深いこの建物は、幕末に臼杵藩随一の剣豪として知られた片切八三郎の屋敷です。また、八三郎の息子の中根貞彦(中根家の養子)は、経済人・歌人として有名でした。
切通し・甚吉坂
一般に「切通し」とは山を切り開いて通した道のことをいうようですが、臼杵城下で切通しと言えばこの道を指したようです。臼杵城下形成期には、この道が城下へ入る主要道の一つとして使われていました。大友宗麟の家臣で槍の名人であった吉岡甚吉は島津氏との合戦で、この坂に立ちはだかり見事な働きを見せたことから「甚吉坂」と名付けられました。
「明石人骨」を発見した直良信夫の生家
直良信夫は戦前に独学で考古学・人類学の研究を行い「明石人骨」を発見し、日本での旧石器時代研究のきっかけをつくりました。この建物はもともと長屋で、最も切通し側の長屋が直良信夫の生家です。
旧斉藤家屋敷
この屋敷は臼杵藩士であった斉藤家のもので、美濃国出身の斉藤氏は臼杵藩主5代景通に召抱えられこの地に居を構えました。
稲葉家土蔵
この建物は江戸時代、臼杵藩主稲葉家の分家の蔵でした。奥の長屋門は江戸時代、臼杵藩主稲葉家の分家の門でした。臼杵藩では家老やそれに次ぐ重職の家来のみが長屋門を持つことを許されたようです。
釘宮邸
傾斜に建つ釘宮邸は高い石垣が印象的です。塀の向こう側には白い窓枠が美しい洋館があります。この建物は2002年公開の映画「なごり雪」に登場する「雪子の家」のモデルとなったそうです。
今井邸(旧武家屋敷)
丸くカーブした石垣が印象的な屋敷です。石垣が内側に曲がった場所に階段と門があります。これは奥が見通せないようにする工夫で、臼杵の武家屋敷に特徴的なもののようです。
旧丸毛(まるも)家
丸毛家は美濃国の武士で明智光秀の家臣であった斉藤氏の一族でした。明智光秀が敗れた後、長く流浪していたようです。1628年(寛永5年)に、三代臼杵藩主一通に召し抱えられこの地に居を構え、代々町奉行役等を務めました。
月桂寺石垣
月桂寺の左側には高さ約9m、長さ58mに渡る巨大な石垣が積み上げられています。
臼杵城

毛利氏との戦いに敗れた大友義鎮(宗麟)が1556年(弘治2年)に臼杵湾に浮かぶ島であった丹生島に臼杵城を築城したとされています。その後、大友氏は改易となり、福原直高、太田一吉と城主が替わった後、1600年(慶長5年)の関ヶ原合戦後に稲葉氏が臼杵藩5万石余の主として臼杵城に入りました。以降、明治維新まで臼杵藩は稲葉氏15代の居城となりました。
1873年(明治6年)、明治新政府の廃城決定により二の丸の畳櫓と本丸の卯寅口門脇櫓以外の建物はすべて撤去されました。現在は公園として整備され臼杵のシンボルとなっています。
アクセス

【電車でのアクセス】
JR坂越駅から徒歩約25分
【車でのアクセス】
下の地図の場所に無料駐車場(赤穂市坂越駐車場)があります。
訪問日:2021年11月
最後まで見ていただきありがとうございます。
ご感想や、坂越についての思い出、これから出かけられる方に役立つ情報等ございましたら、コメント欄で教えていただけると幸いです。