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古い町並み
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河内長野の町並み(大阪府河内長野)
河内長野(高野街道)の町並み(大阪府)

町並み保存度
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古い家屋は減ってきている様子ですが、随所に往時の街道と宿場町の雰囲気を感じることができる町並みが残されています。
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町並みの規模
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「河内長野駅」に近い「吉年邸」から「三日市町駅」に近い「三日市宿」まで約2kmの高野街道沿いに見どころが点在しています。
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観光魅力度
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随所に見どころがあり、案内板なども用意してくれており風情のある街道の散策を楽しめます。
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古くから栄えた河内長野は、高野街道(こうやかいどう)や岩湧街道、大沢街道など、歴史的な街道が交差する交通の要所でした。特に 高野街道は、かつて京や大坂から仏教の聖地である高野山への参詣道として使われ宿場町や商家が発展しました。街道沿いには現在も江戸時代から続く伝統的な建物が点在しており、特に「高野街道酒蔵通り」には風情ある町並みが残されています。
三日市宿には本陣格の旅籠「油屋」があり、幕末には「天誅組」の志士たちが倒幕を唱え、大和五条代官所討ち入り前に集結した地としても知られています。 「河内長野駅」近くの吉年邸から「三日市町駅」近くの三日市宿にかけての高野街道沿いには、現在も往時の雰囲気を感じられる町並みが随所に残されています。
「河内長野駅」近くの町並み(吉年邸〜高野街道酒蔵通り)

吉年邸(よどしてい)

吉年邸(よどしてい)
河内鋳物師の流れを組む吹屋吉年邸の一角であり、前面を高野街道が通る歴史的に意義のあるところです。
吉年邸のくすのき(市指定文化財 天然記念物)
吉年邸のくすのきは、市指定文化財に指定された1970年(昭和45年)時点で、樹高が約20メートル、幹周が約4.7メートルありました。現在はさらに成長しているのでしょうか。
吉年邸周辺の町並み
かなり大きなお屋敷です。剥がれ落ちた漆喰の塀に歴史を感じます。
高野街道酒蔵通り

河内長野駅から徒歩5分の場所にある「高野街道酒蔵通り」は、国登録文化財である1718年(享保3年)創業の造り酒屋、「西条合資会社(天野酒)」を中心に歴史的で風情ある町並みが残されています。
西条合資会社旧店舗主屋・土蔵
西条合資会社は河内長野市内唯一の造り酒屋で、当初は菜種油を主とした油屋を営んでいましたが、六代目が造酒業に変更しました。2階建て桟瓦葺きの「サカミセ」とよばれる旧店舗と、桟瓦葺きの土蔵からなっています。建築された年は不明ですが、古図や虫籠窓の形、2階の天井の高さから、幕末から明治初期と考えられており、国の登録文化財に指定されています。
桟瓦葺(さんかわらぶき)の土蔵
高野街道三日市宿

816年(弘仁7年)、空海が真言密教の道場として高野山を開いて以来、高野街道が整備されるとともに諸大名や一般庶民の参詣者が増えました。
徳川幕府によって大坂と高野山の中間にあたる当地に三日市宿が設置されて以降、旅籠などが建ち並ぶ伝馬宿駅としてたいへん賑わいました。
八木家住宅
八木家住宅は、木綿問屋を経て、造り酒屋を営んでいました。建築された年は不明ですが、部材の古さ、鴨居や天井の特徴から、18世紀後半に建築されたものと考えられています。主屋は木造の平屋建てで町屋の伝統的な外観をとめています。土蔵は木造2階建てで、外壁面には漆喰が塗られ下半分に焼杉の板が貼られ、窓には銅板の扉が設けられています。
旧三日市交番
旧三日市交番は外観の構成などから1921年(大正10年)の建築と見られていますが、昭和27年と修理され、されに近年一部改修されているようです。しかしながら、建築当初の様子をよくとめており、近年まれとなった大正時代の木造派出所の様子を伝える建築として貴重なものとなっています。
油屋跡
「油屋」は、江戸時代に菜種油の製造・販売を本業としながらも、高野詣での本陣格の旅籠(旅館)を兼業していました。
街道らしい情緒ある風景が随所に残されています。傾斜のある土地には石積みが施されています。
ゆるやかにカーブしながら街道が続きます。
高野街道 三日市宿高札
この場所は江戸幕府によって高札場が設けられ、幕府が出した法度(法令)や宿駅を利用する際の規定を庶民に知らしめる場所となっていました。ここで使用された高札2枚が現存しており「三日市宿高札」として烏帽子形八幡神社に保管されています。
多聞丸(楠木正成)大江時親に学ぶ像
多聞丸(楠木正成の幼名)は少年期に観心寺の僧から一般教養を学んだ後、学者の大江時親から日本最古の兵法書「闘戦経」を学び、和の精神により、国と人々の平穏を確立すべきとの教えを受けました。楠木正成は鎌倉幕府倒幕に中心的な役割を果たし、建武の新政に貢献しました。しかし、武士から不満が上がり足利尊氏が反旗を翻し兵庫に迫ったことから、正成も失敗を覚悟し出陣し、1336年(延元元年)、兵庫湊川の戦いにおいて42歳で戦死しました。この石像は、多聞丸が河内長野市三日市にゆかりの深い学者・大江時親から学問を学ぶ姿です。
アクセス

【電車でのアクセス】
南海高野線「河内長野駅」西出口をでてすぐ。下記地図の場所に高野街道の入り口を示す銅鐸をイメージした石碑があります。
【車でのアクセス】
河内長野駅前のショッピングモール「ノバティーながの」の駐車場(有料)や周辺にコインパーキングが多数あります。
訪問日:2024年10月、2022年7月
最後まで見ていただきありがとうございます。
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