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古い町並み
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出島和蘭商館跡(長崎県長崎市)
出島和蘭商館跡(長崎県長崎市)

町並み保存度
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再建された建物が中心になりますが、出島内ということもあり新しい建物が間に挟まることもなく当時の町並みが見事に再現されています。
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町並みの規模
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出島内に復元されているほとんどの建物の内部が見学でき、それぞれに工夫を凝らした展示があり、大変見応えがあります。
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観光魅力度
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長崎市の中心にあり他の観光名所にも近く、長崎を訪れたなら必ず立ち寄りたい場所です。
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出島は江戸幕府の対外政策の一環として、ポルトガル人を一か所に集めキリスト教の布教を防ぐ目的で築造された扇形の人工島で、1634年(寛永11年)から1636年にかけて建設されました。
1639(寛永16年)の鎖国令によってポルトガル人は退去させられ一時は無人の島となりましたが、1641年(寛永18年)平戸藩領にあった平戸オランダ商館が出島に移され、以降、安政の開国までの218年間にわたって出島は西欧に開かれた唯一の窓口となりました。
明治以降に進められた周辺の埋め立てによって出島本来の扇形の姿は失われましたが、1996年(平成8年)より当時の出島の姿を復元する取り組みが行われています。
1951年より長崎市が出島の復元整備を開始し、現在までに16棟の建物や景観が当時の姿を取り戻しました。
出島(国指定史跡 出島和蘭商館跡)

護岸石垣と出島表門橋

出島表門橋
2017年(平成29年)、130年ぶりに「出島表門橋」が架けられました。鉄製のシンプルなデザインになっています。復元物と混同しない配慮がありつつ景色と調和するものになっています。
南側護岸石垣
2003年(平成15年)〜2004年(平成16年)に行われた発掘調査により6〜7段にわたる石垣が発見されました。当時は海に面していたことから台風などの影響を受けていたため、度重なる修復の痕跡が確認されています。
西側護岸石垣
旧長崎内外クラブ

旧長崎内外クラブ
長崎内外倶楽部は1899年(明治32年)長崎に暮らす外国人と日本人の交流の場として設立されました。この建物は1903年(明治36年)に建てられました。
旧出島神学校

旧出島神学校
この建物は1878年(明治11年)に英学校として建てられ、1883年(明治16年)に出島聖公会神学校となりました。出島聖公会神学校は日本で最初に設立されたプロテスタントの神学校です。
1910年(明治43年)からは病院としても使用されました。
組頭部屋・銅蔵

組頭部屋・銅蔵(写真左)
江戸時代、国内で生産された銅は、長崎から中国やオランダの貿易船で世界に輸出されていました。銅蔵の1階には輸出用の棹銅が、2階には鮫皮が収められていました。日蘭双方の立会いのもと棹銅を再計量した確認する作業が行われていました。
旧石倉

旧石倉
この一帯には石造の倉庫が立ち並んでいました。この建物は1956年(昭和31)年に古写真などをもとに復元されたものです。
蘭人部屋

筆者蘭人部屋
建物内部は長屋のように4区画に別れていて、オランダ商館員の筆者(書記役)が住んでいた建物です。2階の窓の手すりには当時オランダでよく使われていたも緑色の塗料が使われています。
一番船船頭部屋
一般的に出島でのオランダ人用建物は、2階は居住用途に、1階は倉庫として用いられていました。この建物は2階西側が船長、左側は商館事務員の住居として使われていました。
拝礼筆者蘭人部屋
オランダ人の主席事務員が住んでいた建物で2階が住居として使用されていたようです。
蔵(倉庫)

一番蔵
当時のオランダ人は蔵に花の名前をつけていて、この建物は「バラ蔵」だったようです。外観は日本の蔵そのもので、19世紀初めの絵図によると1番蔵から17番蔵まであったようです。
二番蔵
全国的にも珍しい大型の土蔵で当時のオランダ人が「チューリップ蔵」と呼んでいました。
三番倉
オランダ人はこの蔵にピンクのカーネーションを指す「アニェリール」という名前をつけていました。出島は海に面していることから建物の傷みが激しく、特に倉庫の外壁は何度も修復した記録があります。
アクセス

【路面電車でのアクセス】
長崎駅前から「崇福寺行き」に乗車し、「出島」で下車、徒歩すぐ(または「新地中華街」で下車、徒歩1分)
【車でのアクセス】
周辺にコインパーキングが多数があります。割高な駐車場もあるようですので利用される場合は注意してご確認ください。
入場料金やアクセスについて詳しくは出島の公式ウェブサイトでご確認ください。
訪問日:2022年10月
最後まで見ていただきありがとうございます。
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