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知覧武家屋敷通り(鹿児島県南九州市)
知覧武家屋敷通り(鹿児島県南九州市)

町並み保存度
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行政と地域住民の努力によって江戸時代に造られた武家屋敷群は、現在も往時の姿が見事に残されています。
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町並みの規模
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武家屋敷が700メートルにもわたって折れ曲がった本馬場通りに沿って連なっています。
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観光魅力度
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多くの武家屋敷の庭園が公開されており、見事に整備された通りや庭園をゆっくり見学できます。
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江戸時代、薩摩藩は鶴丸城を本城とし、領内を「外城(とじょう)」と呼ばれる113の行政区画に分けて統治しており、知覧はその外城の一つでした。
外城には「麓」と呼ばれる武家集落が形成され、鹿児島に武士団を集結させることなく分散して統治にあたらせていました。
知覧の麓に第十八代知覧領主・島津久峰(1732年〜1772年)の時代に造られた武家屋敷群は、現在も往時の姿を見事に残しており、1981年(昭和56年)には国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。
知覧では長年に渡って行政と地域住民による歴史的建造物や景観の保全に配慮した街づくりが行われており、名勝庭園として国の指定を受けた武家屋敷が700メートルにわたって集落を形成しています。
知覧武家屋敷通りの石垣

武家屋敷が700メートルにも渡る本馬場通りに沿って連なっています。
行政と地域住民の努力によって現在も往時の姿を見事に残されています。
四角い切り石の石垣と丸石の石垣が混在していますが、門と石垣は家の格式を表していて切り石の石垣のある武家屋敷のほうが格式が高い家だったようです。
国の名勝に指定された7つの庭園

佐多美舟庭園

美舟家は、知覧領主の流れをくむ家柄で江戸時代には御役人と言われる知覧で最高の役職を担っていました。格式の高い門構えで、最も高い屋根の左右に一段低く小さな屋根が付いた造りになっています。
美舟家の庭園は宝暦年間(1751年〜1764年)に作庭されたと伝えられ、指定を受けた七つの庭園で最も広いものです。
佐多民子庭園

門から玄関まで何度も折れ曲がって進む枡形虎口(ますがたこぐち)という作りになっています。これは外からの進入に備えた設計で防備に対する意識が高かったことが窺えます。
左側が主屋、右の門をくぐると庭園になります。
この庭園は宝暦年間(1751年〜1764年)に造られたと伝えられています。庭石は麓川の上流から運ばれたもので、石目に沿って割って牛馬で運ばれました。
佐多直忠庭園

直忠家は、知覧領主の流れをくむ家柄で、関ヶ原の戦いに従軍した記録も残っています。江戸時代には御役人と言われる知覧における最高の役職を担っており、格式の高い門構えとなっています。
佐多直忠氏の庭園は寛保年間(1741年〜1744年)に造られたと伝えられています。
森重堅庭園

森家は領主に重臣として仕えた家柄で、住居や土蔵は寛保初年(1741年)に建てられたものです。
曲線に富んだ池には、珍しい形の岩が用いられ山や半島を表しています。
西郷恵一郎庭園

平山克己邸庭園

平山亮一邸庭園

知覧型ニッ家

鹿児島独特とされているニッ家の中でも、二つの屋根の間に小棟をおいてつなぎとした造りは知覧だけに見られ「知覧型ニッ家」と呼ばれています。居住用の「オモテ」と台所のある「ナカエ」の2つの建物が別棟として建てられていますが、生活上の不便を解消するために間に小棟をおいたようです。
平山亮一邸庭園

旧高城家住宅は、明治以前の建築で、「おとこ玄関」と「おんな玄関」の二つの玄関があるのが特徴です。他の知覧型ニッ屋と同様に「おもて」と「なかえ」の二つの屋根の間に小棟を置いた形式の建物になっています。昭和に入り「なかえ」部分は失われていましたが、1994年(平成6年)に復元されました。
アクセス

【電車でのアクセス】
JR鹿児島中央駅東口から鹿児島交通バス「知覧特攻観音入口行き」でバス停「武家屋敷入口」まで1時間12分。バス停から知覧武家屋敷庭園群までは徒歩2分です。
【車でのアクセス】
下の地図の場所に無料駐車場(知覧武家屋敷庭園 駐車場)があります。
訪問日:2023年2月
最後まで見ていただきありがとうございます。
ご感想や、知覧武家屋敷通りについての思い出、これから出かけられる方に役立つ情報等ございましたら、コメント欄で教えていただけると幸いです。